真実の自分を観る ジーバ・魂霊の二重性を理解する
プレクシャ・メディテーションの始めに、毎回、
サンピッカ エーエー アッパアー ガー マッパエーエー ナンムー
と唱えますが、その意味は、自分自身を通して自分を観てください、そして真実の自分を観てくださいです。
真実の自分とは何でしょうか?それは本当に実在している自分と云うことです。では、私たちが常日頃、自分自身だと感じている肉体や心は自分自身とは異なったものなのでしょうか。
プレクシャ・メディテーションのアヌ・プレクシャの中に沈思黙考という瞑想法があります。沈思黙考は考える瞑想、智慧の瞑想とも言われ、古代ジャイナ教の出家僧は黙考の修行者と呼ばれていたようです。アーヤランガと云う最古の聖典では出家者をそのように表現しているので、その時代の瞑想は無思考型の瞑想ではなく、積極的に考える瞑想だったのでしょう。
智慧の瞑想としてのアヌ・プレクシャには12種類の重要な対象がありますが、中でも①魂とは何か・生命体とは何か、②世界とは何か、③輪廻とカルマの関係について、はとても重要だったらしく多くの黙考修行者に考察されて、後年極めて緻密な哲学となっていったようです。
宇宙は永遠の昔から5種の実在体によって構成されていて、創造神によって作られたものではないとしています。【5種の実在体については、細分化して詳述されているがここでは触れない】
世界は大きく2つに別けてジーバと呼ばれる生命体(実在体の一つ)と、それ以外のジーバでないもの4種類の実在体で構成されていると考えられました。
ジーバは宇宙の始まりの無い始まりから、終わりの無い終わりまで、無数にあって、純粋なるアートマンがカルマと云う物質の汚れと結びついたものだと考えられています。ジーバを日本語に訳せば霊魂です。本当は魂霊と訳すべきでしょう。
魂はジーバの本質部分で浄、不浄を超えた究極の清らかさです。それをシッダ・アートマンと呼ぶことがあります。
霊は清らかな魂にカルマの汚れが付いているレヴェルのことでジーバ・アートマンと云います。ジーバ・アートマンは特殊性、個性別になった魂霊(魂プラス霊)のことです。霊を別な言い方で云えば潜在意識であり、個性、人格、カルマが付着して汚れた魂です。又、霊は行為の結果のカルマが原因を包含している原因体であると同時に、カルマの報いを受けている現在の心身と生活とも云えます。だからジーバは因果律によって輪廻している魂だと云えるのです。このようにジーバは原因のカルマを作る行為の主体者であり、同時にカルマの結果を受ける享受者なのです。
全てのジーバには感覚がある。その感覚が根本欲で苦楽であり好嫌です。好き嫌いが命を守っているのです。苦楽と好き嫌いが無ければジーバは生命体になれません。その好き嫌いが大元で様々なカルマが結びついて、カルマが原因でジーバは輪廻転生していると考えています。ジーバ・アートマンを特長付けるカルマとの結びつきにおいて、カルマは物質だと解されています。物質は時間とともに変化し一時的で生滅の形をとります。だからカルマで汚染された魂から汚れを取れば、魂(カルマ体、ジーバ)から物質のカルマが無くなって非物質の究極の浄としてのシッダ・アートマンになるのです。
シッダ・アートマン(魂)は非物質で、常住で、その有るという状態(実在性)が消え失せないものです。ジーバの常住性と云う一面に注目すれば、それは普遍性であり共通性になります。純粋なるアートマンとしてジーバを観れば、それは無形体であり、解脱しているものであると云うことができます。これが、真実の自分、本当の自分です。
プレクシャ・メディテーションをする究極の目的は、個性を形成しているカルマを全て取り除き、モークシャ(解脱)になることにあります。モークシャとは、もうジーバ・生命体に生まれないと云うことです。モークシャの状態を言葉で表現することは出来ませんが、概念としては全知全能、無限の自由、無限の歓喜、無限の平和に満たされている状態です。この状態になった魂をシッダと呼んでいます。
ジーバではない非魂霊の四つの実在体の一つに虚空(アーカーサ)があります。虚空は他の四つの実在体に場所を与えています。虚空は一つしかない単一なもので、形が無く、活動力が無いと定義されています。また、虚空は世界と非世界を含んでいて二つを合わせて全宇宙と云います。非世界は世界の外側に広がっていて、カルマ物質の付着が無くなった魂は、軽くなって非世界に入るのだと説かれています。
このような思想から、運命の造り主は自分自身である。世の中に起こっていることの全ては必然であって偶然に起こっていることは一つもない。自分が選択した行為の結果によって、全てのことが自分に起こるのだから、これこそが本当の自由の意味です。神様のような存在が人間をコントロールしているなら隷属であって自由は無いでしょう。自分自身が不自由に感じられるのはカルマの汚染によって縛られているからです。
人間として生まれたジーバは尊いものだけど、全ての人間は生まれながらにして病人であり健康な人など誰もいないと思います。また、生まれながらにすでに精神障害者なのだと思います。なぜなら最大の病は輪廻転生病に罹っているからです。このことをマハービーラも仏陀も『苦』と観たのです。苦の消滅が解脱でありニルバーナです。仏陀はアートマン論者では無かったので、マハービーラのように魂に付着する物質的なカルマは想定しませんでした。カルマを精神的なものと解釈してそれを煩悩と言いました。仏教には唯物論者の一面があります。
ジャイナ教でも仏教の煩悩と同じ意味でカルマ体(霊体)のレベルにカシャーイがあります。
魂に付着した悪いカルマと善いカルマ、全てのカルマを取り除くことはかなり困難で難しいことです。ジャイナ教の出家僧は現在でも完全にアカルマ(無業)になるために苦行をしています。
私達は出家の身ではないから行為をしないことは不可能ですし、厳しく困難な苦行も無理です。世界の性質と魂とカルマの法則と輪廻転生の理屈をよく知って、自分を損ねるカルマを入れず、自分を助けるカルマを入れるように行動、行為していけば善いのだと思います。それが幸せの道であり、非暴力・無執着・平等・無差別・世界平和の道となると思っています。
付記:アートマンやジーバ、魂などの形而上学的テーマを研究している学者達の論文を読んでいると、魂と霊を区別せず混同して記述しているので、とても理解しにくいです。スピリチュアルなことに言及している人の多くは、心と霊魂や感情の区別さえ出来ていないものも多く見かけます。これが宗教哲学の理解に混乱を生じさせています。正しい洞察力を得るために、今回私が書いたこの小論文『魂霊の二重性』を参考にしていただければ嬉しいです。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/7/30からの転載です)