コラム(勝利者の瞑想法):正しい認識を持つことは難しい【科学と哲学の間の問題】

 「正しい認識を持つことは難しい」とはプレクシャ・メディテーションの技法の一つ、アヌ・プレクシャ(徹底的に考える、智慧の瞑想)のテーマの一つになっている。2600年前のマハーヴィーラの時代には瞑想法は「智慧の瞑想」が主流だったらしい。マハーヴィーラが弟子に語ったとされるアーガマ経典の「アーヤーランガ」では出家者を「黙考の修行者」と呼称しでいる。
私はここで、以下に意識と認識とカルマと私達の関係性にいろいろ考察の光をあてて見ようと思う。

 生命体のことをインドの言葉でジーヴァと言う。ジーヴァはまた日本語に訳せば霊魂となる。霊魂と云うのはジャイナ教哲学では魂の二面性として説明する。魂はアートマンと称され、純粋な魂と汚染された魂とに別けて考えている。全て生き物の魂は純粋な魂にカルマ的物質の付いた汚れた魂となっている。汚れた魂は輪廻している魂で清らかな魂は輪廻から外れた魂である。

 カルマによって汚染された魂から、汚れであるカルマ物質を取りのぞけば、後に残るのは純粋なる魂だけとなる。汚れた魂の汚れをとることが私たちが生きている究極の目的なのだと、ジャイナ教は主張する。魂を清らかにすることが修行であり、完全に清らかになればそれが解脱である。解脱とは苦しみからの解放であり、もう生命体に生まれない、輪廻転生からの離脱である。

 霊魂は本当は魂霊と訳すべきである。魂はジーヴァの畢竟の浄(汚れてもいなければ、清らかでもない究極の純粋さ)のことで、霊とはジーヴァの汚れた魂の部分で、個性別のことである。

魂霊に備わっている本質的なものが意識である。
その意識によって物質的カルマが引き寄せられて、私達の今ある姿が出来上がっているのだとジャイナ教は主張する。

 純粋な魂は共通性であり普遍性であり、非物質的なものてある。非物質はエネルギーではないから変化しないので常住(生じるものでもなく滅するものでもなく、永遠不変の実在体)であると云われる。これが私達の本質であり真我と呼ぶべきものである。こういう認識、知識、哲学は五感や思考、科学性を超えた深い認識によってもたらされる。

 霊とは物質的なカルマの汚れを含んで、私たちの原因体を形成している個我である。物質的なものはエネルギーであるし、変化するから常住ではない。様々なカルマに汚染されているから、それぞれの魂は個性と特殊能力を持っているのである。個別性と特殊性を有するカルマ物質の影響で、私達の霊体は原因体でもあるから、原因と結果の微細なバイブレーションを常に周囲に放射している。その内から出ているエネルギー波動に応じて、外から様々な超微細なカルマ物質を霊体に引き寄せている。これが私たちの命のシステムである。カルマ物質はエネルギーであるし、変化するから、取りのぞくことが出来るのである。

意識とは何か?
意識とは気付いていることであり、外の世界や自分自身の身体の状態が解ってる状態である。又、自分が今、体験している感覚、感情、思考、記憶などの総体でもある。何かを経験しているという主観的な感覚そのものが意識であり、その経験の全てが意識を構成している。意識を持っているから生命体は、自他を認識出来るのである。

認識とは何か?
認識とは対象をはっきりと区別が出来て、理解し知ることが出来る事である。さらには知ったことの知識のことでもある。だから、私達の魂霊には意識が備わっているから認識でき知性があると云えるのである。

認識の出発点は感覚である。
苦楽の感覚によって好き嫌いが起こり、欲しいと云う欲望と遠ざけたいという怒りが起こってくる。生きているとき、必ずそれが起こっている。苦楽も好嫌も同じことのレヴェルの違いのことであるから、受け手によって評価が違ってくる。評価の違いが認識の違いになり体験と反応(行動)の違いになる。反応が違えば結果も違ってくる。行動が原因となっていて、その原因の中に既に結果が入っている、とジャイナ教は主張する。原因と結果は一つの事であるから、結果がまた原因になる。起こったことに対してどのように反応したかが、次の結果を生み出す原因になっている。そこに、条件と環境である縁を加えたものが因果律である。因果律を理解するためにカルマについて認識を深める必要性がある。

正しく行動するためには正しい認識をもつ必要がある。
正しい認識と正しい知識を持つことが悟りへの道に一番必要な基本要素なのだと思う。

中世ジャイナ教の考え方では5種類の認識について解説している。五種類の認識とは次のようなものである。

間接的な認識二つ・思考が伴っている  

①感覚器官によって得られる認識
②聖典・言葉の教え(これらも感覚器官に依る) 現代では検査器機による認識も含む

直接的な認識三つ

③直感
④他人の心や思想に関する認識
⑤全知

 直感による認識や他人の心が解る認識は、五感や心の機能を介さないで、時間空間を隔てていても、認識できる直接的な認識であるが、誤りを含んでいることがある。透視や千里眼のような認識はカルマの減少によって発現するが、魂が完全なアカルマになっていないから限定的なものである。読心術は憎悪や嫉妬心が少なくなると発現すると云われている。これも限定的なものである。一方、全知は、魂に付着したカルマが私達の認識の障害になっているのだから、その障害が完全に無くなれば全知に至るのである。

 全知は常に正しく、誤りを犯すことが無い。全知は認識と知識に何の制約も無く絶対的なものだと云われている。全知とは全能と同義であり、アカルマになって完全解放されたアラハンの認識・知識である。全知こそが正しい認識なのである、アラハンになるのが難しいのだから正しい認識を持つのが難しいのである。非物質を完全に認識できるのは全知の認識でなければ不可能なのだと思う。

 プレクシャ・メデテーションで目指すのは全知になることであるが、その前に直観力を高めるために自己を損ねるカルマを少なくしなければならない。

それには五感の知覚を超えた知覚の超感覚的感知を高める必要性がある。プレクシャ・メディテーションを訳して知覚瞑想と呼んでいるが、本当は『直感的知覚瞑想』と云うべきなのである。

 直感的知覚瞑想では感覚器官に依る知覚を介さず、思考に依る判断識別を停止して、純粋意識で自己の内部を観察するのである。このような理論に基づいて構成されたシステマチックな瞑想がプレクシャ・メディテーションである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/10/31からの転載です)